「ちょんの間」という業態が裏風俗と呼ばれるジャンルの中である。旅館、料亭、小料理屋やスナックなどの名目または形態をとりながら、個室で短時間にプレイするというアングラな風俗なのだが、その説明について、一部の雑誌やインターネットなどでは、「遊郭や赤線の名残」とか「昔の遊郭が現代まで残ったもの」などといった旨の説明が目につく。
しかし、これは事実説明としてはかなり大雑把であり、あまりに乱暴である。確かに、明治大正期までに設けられた遊郭が赤線に移行し、それが昭和33年4月施行の売春防止法以降に「ちょんの間」として残ったケースも少なくない。大阪の松島新地や飛田新地などはその一例だ。
だが、川崎・堀の内にあるちょんの間も、赤線や遊郭とはまったく無関係である。堀の内のちょんの間はソープ街の中にあったが、こちらもソープ街を訪れる客目当てに発生したらしい。また、江戸時代に東海道の川崎宿が置かれていたことから、堀の内ソープ街を「江戸の宿場町以来の歓楽街」と思っている人がいるが、これも正しいとはいえない。川崎にあった赤線は南町のほうであり、こちらはつい5~6年までちょんの間として営業していたようだ。ちなみに、実際の川崎宿は現在の堀の内よりもずっと川岸近くにあり、堀の内は早くとも明治維新以降に発達したと考えられている。
また、赤線や遊郭以外の起源をもつちょんの間も少なくない。たとえば、すでに営業を停止した横浜の黄金町にあった通称「ガード下」は、雑誌などでよく「旧赤線」などと説明されることがあった。しかし、横浜で歴史的に赤線すなわち特殊飲食店街として警察に認められていたのは、「永真花街」と呼ばれていた、黄金町からすぐ近くの真金町と永楽町であった。黄金町は遊郭でも赤線でもなく、どちらかというと「私娼もいるアングラなストリート」に過ぎなかった。それがいつしか女性が集まって青線的な雰囲気となり、33年以降にちょんの間として形成されていったことは数々の資料に明らかである。
もっとも、地元の人が俗称的にちょんの間を「アカセン」などと呼ぶことはある。しかし、仮にも報道となれば、その経緯や起源を正しく説明すべきであろう。すなわち、ちょんの間の経緯としては、「赤線や遊郭からの移行」のほか、「自然発生的なもの」「赤線業者の転業や移転」「私娼窟や青線からの移行や発展」など、いろいろなパターンがあることが資料や証言からすぐにわかる。
それにしても、「遊郭-赤線-ちょんの間」という図式は、生々しい経緯を無視した、あまりに官僚的な考え方ではないかと思われる。官僚的な公式に当てはめてしまっては、生きた歴史は隠れて見えなくなってしまうのではなかろうか。風俗店のスタイルにも、その時代や土地ごとにさまざまな背景があるケースがほとんどだ。